保阪正康さん講演会と第11回総会・懇親会(24.01.13)

Posted by on 2月 3, 2024 in 未分類

「同志社地域交流講演会in山梨」と「第11回総会・懇親会」を、1月13日(土)に甲府・シャトレーゼホテル談露館で開きました。

保阪正康さんのオンライン録画による講演。約80人が聴講した

今回は、同志社への理解を深めてもらうため、県民に広く参加を呼び掛けての同志社地域交流講演会を約4年ぶり(2019年12月以来)に企画。同志社大学OBでノンフィクション作家の保阪正康さんの「石橋湛山の生誕140年、私たちに問いかける歴史観」と題した、オンライン録画による講演を会場で上映しました。ご体調の関係で来県が難しくなり、急遽、事前のオンライン録画による講演に変更しましたが、県民の関心は高く、約80人が熱心に耳を傾けました。

同志社校友会山梨県支部の総会で挨拶する上原勇七支部長

同志社大学の現状を紹介しながら挨拶する高杉直副学長

大学、校友会本部、支部からご来賓がご臨席された総会

総会は、同志社大学から高杉直副学長ら、同志社校友会から山川寛之副会長をはじめ近隣支部(東京、神奈川、千葉、茨城、栃木、群馬、長野)のご来賓のご臨席をいただきました。2024年も春、夏、秋の集いと総会を通して会員の拡大を図り、友好の輪を広げていくことや、25年に創立150周年を迎える大学のALL DOSHISHA募金に協力していくことを確認しました。

懇親会での乾杯

卒業年の順に輪になって自己紹介

肩を組んでカレッジソング

同志社校友会山梨県支部は同志社同窓会山梨支部とともに活動しており、今回は1958年卒から2016年卒までの幅広い年代の同志社大学・同志社女子大学の山梨在住・出身のOB・OG23人が参加。懇親会では、ご来賓も一緒になって卒業年の新しい順に輪になり、それぞれ「私、実は~」というとっておきの話題を交えながら自己紹介をし、親交を深めました。最後は全員で肩を組み、カレッジソングと同志社チェアで締めくくりました。

山梨県支部では、県内在住・出身の同志社大学・同志社女子大学の卒業生に広く参加を呼び掛け、和気あいあいと活動しています。今後も、集いや総会の詳細が決まったらご案内いたしますので、今回は残念ながら参加できなかった方も、ふるってご参加ください。


〈保阪正康さんの講演内容を紹介します〉

【石橋湛山】1884(明治17)年生まれ、1973(昭和48)年没。東京で生まれ、父が増穂(現富士川町)の昌福寺住職に就任するのに伴い、生後半年で甲府に転居。1895年に2年早い飛び級で山梨県尋常中学校(在学中に県立山梨県第一中学校に改称。現在の甲府一高)に入学。2度の留年を経験し、札幌農学校でウィリアム・クラークの教え受けた校長・大島正健と出会い、刺激を受ける。早稲田大学哲学科を卒業。1911年に東洋経済新報社に入社して多くの社説を発表し、言論人として活動。1946年に第1次吉田茂内閣の大蔵大臣に就任、47年に衆院議員となり、54~56年に鳩山一郎内閣で通商産業大臣を務めた。56年12月20日に第55代首相に指名され、23日に石橋湛山内閣が発足したが、病に倒れ、国務を全うできないことを潔しとせず「政治的良心に従う」と退陣を決意し、57年2月23日に内閣総辞職。

講演の概要

近現代史と言いますが、近代史は明治元年から昭和20年8月の敗戦までで、軍事主導路線で世界に出て行って周辺諸国を軍事的に制圧することによって国力を付け、国際社会で一つの力を持ち、最終的にはアメリカを中心とする連合国との軍事衝突で崩壊しました。その近代史を教訓に、もう軍事主導ではない、経済・文化で国際社会に出て行こう、というのが現代史です。近代史77年、そして現代史約80年と、ちょうど同じくらいの期間になりました。

この近現代史の中で一貫して、現代史のような日本であるべきだ、と訴えていたのが石橋湛山です。石橋は近代史の中で、軍事主導の国策によって隣国へ軍事力を伸ばし、制圧しようとする試みに、常に反対、あるいは批判的な言論を書いていました。湛山の言論人としての出発は明治の終わりですが、一貫して次の三つのことを言っていました。

一つは、日本は大日本主義であるべきでない(小日本主義)、日本の国土の中で自分たちの生活を守るのでいいのだ、よその国に出て行く必要なんてないんだ、ということ。

二つ目は、軍事は全てを解決することにはならない、本当に大事なことは人間の生活を向上させることで、軍事よりも経済や精神文化が大事なんだ、ということ。

三つ目は、一人一人の人権を守らなければならない、大事にしなければならない、ということ。

この三つを自分の体の中にしみこませ、言論人として言い続けてきました。軍事政権との間には当然、対立が起こりますが、戦時中もこういう姿勢を崩さなかった希有な人です。

石橋は戦後、政治家になります。論だけでは社会は変わらない、論を基に政治の力で現実を変えていかなければいけないと気づいたからです。また、今まで軍事主導で帝国主義の論理を振り回してきた人たちとは違った形で、新しい国をつくる、自分の論理を試すのはこれからだ、という考えがありました。

その石橋が昭和31年の終わりに首相になりました。どういう政治をやってくれるか、期待は大きかったのですが、体を壊してしまい、わずか65日で辞めました。石橋が首相を続けていれば、戦後の日本は変わっていたでしょう。石橋の後の首相は岸信介ですが、岸とは全く違う路線でしたから、日本は違った国家になっていたでしょう。

ただ、戦後の現代史の中で、石橋がわずか65日間でも首相であったことは、私たちの国にどれだけ誇りを持ち込んでくれたか、プライドを持ち込んでくれたか、と思います。わずか65日間しか首相でなかったけれど、石橋の名が首相に挙げられていることによって、私たちの国がいかに、そういうリベラリストを本当は望んでいるのだという思いが歴史に刻まれました。これは私たちにとっての財産だと思います。

同時に、そのことによって、日本の近代史の誤り、江戸時代から続いている歴史の一つの流れを石橋を通して考えることができるのです。石橋を通して、明治からの、もっと言えば江戸時代からの、この国はどうあるべきか、ということを見ていくことが大事です。

私たちは今、2つの戦争(ロシアのウクライナ侵攻、イスラエルとハマスの戦闘)と向き合っています。国際社会は常に衝突があり、やがて軍事衝突にいきつき、大量殺戮という時代になっていく。私たちの国は大量殺戮という時代に決して参加することのない国であるという自負を持つと同時に、世界に向けて私たちの国が持っている遺産=江戸時代270年間も戦争をしなかったんだ、近代史77年は誤りだったんだ、その後の現代史の中で他国と一回も戦争をしてないんだ=を基にした論理をつくらなければいけない。その論理を基に、世界に向かって私たちはこういうふうに考えるんだと発信しなければならない。この発信する力が私たちは問われています。

石橋を生んだ甲斐国は、それだけの「何か」を持ってるんだということを自覚して、これから新しい発想、新しい物の考え方の枠組みが生まれてくることを強く期待しています。